ゆるして宵闇

high and dry

朽ちゆくまことではない希求『アングラ演劇論-叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躰』

 ロンドンは、雪が降ってた。外の気温は一度だし、寒いし、寒いし、寒い。 

 

 

 桜庭一樹先生が不条理劇について言及していた!ので梅山いつき氏『アングラ演劇論-叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躰』のことを思い出した!のでまとまらないことを書く。のでので。

 

「時代」について・「普遍」について・「希求」について

 

アングラ演劇論-叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躰 | 出版物 - グローバルCOEプログラム 演劇・映像の国際的教育研究拠点

 

 親知らずを抜くために赴いた総合病院の待合室。消毒液のにおいの中ページを進めたことを鮮明に記憶しているのは。わたしもこの「文脈」を識っている、と読んでいる時にワクワクしたから。不条理劇における「偶像」、待ちわびた「希求」であるところの「ほんもの」がこないこと、すべては「なにかの模倣」に過ぎないこと、肉体の表現の息吹、その限界、闇の中の光。

 

 ついこのあいだ。25日、ファーザーズ・クリスマス・デイに「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を鑑賞した。マーティ、Doc、デロリアンと、過去、未来、タイムリープ。その時代を生きていないのにも関わらずわたしが1980年代もとい1950年代のあの雰囲気にキュンとするのは何故か。BTTFの「魅力」。恋とノスタルジーとロックとマーティのスター性。そのすべて。それは、あの作品が1950・1980年代当時のきらめきをぎゅっと押し込めて結晶化しているところにある。

 ある作品の魅力がその「時代性」のみに閉じ込められた問いかけであると信じているひとは今時そんなにいないかもしれないけれど、じゃあ、何故このように時代性に依拠したきらめきが時代を超えた普遍性をもつのかと言ったら。当時のきらめきをきらめきたらしめるようにその作品が成立しているからということにほかならない。同じような要素を焼きなおして観客から予想以上の反響を獲得することは難しいが、そこに「時代性」を植えつけることは重要な要素であるといえる(君の名は。の現代性しかり?あの中に植えつけられている「口噛み酒」などの風習的要因・古来性?のことは「日本」的性質とわたしはみている)。

 けれど、普遍的な「なにか」・「問いかけ」の視点の一つとしての「時代性」、それはなにかや問いかけの普遍たる構成要素にはならない。

 この本に取り上げられている演劇作品における「救世主の不在」の顕在化はとっても普遍的な問いかけであるとわたしは考える。需要と供給のバランスが取れているのかいないのか定かではないけれど、誰もが「発信」を行える、誰もが「受信」を享受できる今日において、わたしたちにはわたしたちだけの神さま、救世主がいると思う。それはインディーズ・バンドのギターボーカルかもしれない。自撮りのアイコンではないツイッターのアカウントかもしれない。ウェブで漫画を描いているあの人かもしれない。マイケル・ジャクソンデヴィッド・ボウイ、カルチャーにおいて普遍的なアイコン。王冠をかぶっているひとたち。昔はもっと限られていたはず。ヴィディオはレディオスターを消したけど誰もが誰かの「神さま」たり得るこの世界で、みんなは誰を神さまにしているのかな。そうしてそれらのチープさを誰が証明できるだろうか。誰かにとってそれはまぎれもなく尊く、そして確かなチープさを維持している。チープであるからこそ、尊い?そしてそれは偽物?ほんものはどこにもない?過剰な身体による表現が実は「言語」に縛られたものである、と言うアングラ演劇。アングラ演劇のみではない、あらゆる作品において示される「救世主」とはそうやって成立している。このことを語ることは「その時代に生きていない」わたしにも、可能であると言える。なぜならそれは普遍的な問いだから。神さまってなんだ?ほんものってなんだ?美しいものってなんだ?

 桜庭先生の「個人になりたい」という願いは「救世主」との決別を意味するのかもしれないししないのかもしれない。ちなみにわたしは対偶論理より「なになにかもしれないしそうではないかも」という十全的答えしか出せない。ゆえにここではこたえではなくずっとはてなを生み続けていく(気がする)。

エンパク(早稲田大学演劇博物館)で「ぼくらが非情の大河をくだる時」の全文を読んだ時の不条理感(この作品は不条理劇らしさはあるが厳密にそこにカテゴライズされるかどうかはちゃんとわからない)も、闇の中の光のからっぽさ、けれど決してそれがただの虚無ではないなにかをはらんでいる。そういう時代性を感じさせた。という感じできょうもなにが言いたいかわからないままおわる。おやすみなさい。

 

つ・つ・つの追記

 「きちんと覚えていない曖昧なことを書くのはやめよう」と書かなかったけどやっぱかんたんに書いておく。間違っていたらあとでなおせばいいのだった。

 この本のはじめに、梅山氏に対して「その時代を生きていないのにこの研究をやり通すこと」についていかにたくさんの声があったかということについて、梅山氏の師事されていた教授の方が(たしか)言及していらした。それでも、考えていく、考えてみる、ということを繰り返して、そういう「声」を淘汰していくことで芸術における学問的視野は確立されてきた、とも思う。ヨッシャいくぞ〜〜〜〜〜!て感じ。全てのアートは現代アートだったんだ。その時代性、当時性を忘れてはならない。しかし、それが普遍になるとき、必ずしもそれのみが構成要素となることはありえないことを、はたまた普遍となりえた時に時代性が構成要素たり得るのかという「鶏が先か、卵が先か」みたいなはてなをずっと、繰り返していきます。やっぱ追記してよかった!ほんとうに、おやすみなさい。

 

きょうのうた

youtu.be

 

www.waseda.jp

ハロー、そしてさみしくないどこかへ

 

 ずっと、考えていることがある。

 冬のつめたいにおい、ひらがなの柔らかさ、唯一神をもたぬわたしの「神さま」たちについて。

 あるいは、今まで出逢ったひとたち、かなしかったこと、うまくできなかったこと、それでも抱きしめていたいものたちについて。

 

 はじめに、魔法のはなしをする。

 クリスマス・イブに読み始めようと決めた「ハリー・ポッターと呪いの子」を、翌日のファーザー・クリスマス・デイには読み終えることができたわたし。

そうして久しぶりにだいすきな「魔法」に触れ、はじめて「ハリー・ポッター」シリーズの作者である J.K.ローリング女史がハーバード大学の卒業式で行ったスピーチをみた。

 

(公式)

www.youtube.com

 

(日本語字幕版)

www.youtube.com

 

(スピーチスクリプト・全文)

news.harvard.edu

 

 このスピーチの中で女史は、世界を変えるためにわたしたちに必要なものは「魔法」ではなく、「想像力」であり、わたしたちはすでにそれを、自身の中に持っているのだと語っていた。

 We do not need magic to change the world, we carry all the power we need inside ourselves already: we have the power to imagine better.

 

 わたしにとっての「魔法」は、言葉である。知ること、理解すること、感じること、全てにおいて「ことば」がわたしにとっての魔法だった。そしてそれはもちろん「想像力」につながる。

 

 わたしは、「想像力」に羽を生やすことができるのは「言葉」、つまり「言語」であるとわかっている。内に秘めた「想像力」を、ひとに知ってもらうこと、理解してもらうこと、感じてもらうこと。そのためにわたしは「魔法」を使いたいと思えるようになった。

 

 わたしは自分のすきなもの、だいじなものを発信することが今までとても不得意だった。不得意である、としていた。これはみんなにとっての「不得意」のバロメーターに当てはめたものではない。「わたし」の「わたし」による、「わたし」のための「物差し」に当てはめた「不得意」である。というよりも、それは「発信をしたくない」というポリシー?変なこだわり?だったかもしれない。つねづね、このわたし自身の性質は「臆病な自尊心」かつ「尊大な羞恥心」という虎になってしまう危険をはらんでいる自身の性質だとわかっていながらも、わたしには「わたし」として「発信」をすることができなかった。それをやっと、飼いならしていこうと思えたことについてはまたの機会にお話しする。とにかく今は、わたしのことを知っているひとたちに、あらためて自己紹介をしてみようと思う。ハロー、こんにちは、わたしはげんきです。

 これから、ここにすこしずつわたしのこと、しかしわたしの全部ではないわたし、そう、まぎれもなくわたしである「わたし」を綴っていく。 

 

 あ・ず・さ(21歳)

冬生まれ早稲田大学3年生。げんきがとりえ。すきなものは苺とプチトマトと白桃。かんたん料理の新レパートリーはカチョエペぺ。